東京藝術大学 大学院美術研究科 博士審査展2019

保存修復・日本画
河鍋暁斎の絵画表現論
−《龍頭観音図下絵》(河鍋暁斎記念美術館蔵)に基づく技法再現模写を通して−
谷津 有紀

審査委員:國司 華子 塚本 麿充 荒井 経 佐藤 道信 有賀 祥隆

河鍋暁斎(きょうさい)(天保2(1831)年〜明治22(1889)年)は、幕末明治を生きた画師である。浮世絵師や狩野派に学びながらも積極的な学習によって流派を超えた絵画様式に熟達し、多様な作品を描き上げた。
江戸幕府の崩壊と明治新政府による近代化の推進は、日本全体を激変させる出来事だった。絵画界も大きく揺れ動き、画家たちは新時代の絵画を模索した。明治時代は、江戸時代までの「日本絵画」 が、「日本画」という近代絵画に再編されていく転換期だったのである。それまで「日本絵画」は古来より中国絵画から影響を受け、その絵画的特徴の〝誤解〟あるいは〝日本なりの解釈〟をした上で展開していた。特に近世以降は流派による様式化が進み、それに基づく技法教育によって感性を継承していた。しかしそれは「日本画」の誕生によって次第に途絶えていく。つまり明治時代は「日本画」の黎明期でありながら、既存の「日本絵画」が日本なりの解釈を紡いできた歴史の最後の地点でもあるのだ。
本研究で河鍋暁斎の絵画表現に着目する理由は、そこに「日本絵画」の歴史上最後の技法材料的特質が内包されていると推定できるからである。明治時代における「日本画」的な絵画表現の萌芽は、色彩表現の拡張と狩野派的な水墨表現からの脱却に特徴づけられるが、その一方で暁斎が狩野派的な水墨表現を堅持し、彩色表現と併存させていたことは作品を見れば明らかだ。このことは、「日本絵画」から「日本画」への移行期において、暁斎が「日本絵画」的な解釈に基づく絵画表現をとっていたことを意味している。さらに、暁斎の用いた技法材料を伝える記録は、暁斎存命中から残されはじめており、この時代に「日本絵画」に関する情報を記録して残そうという動きがあったことを示唆している。このような特殊性をもつ暁斎作品や技法材料に関する資料は、日本絵画技法の保存記録として今日的意義を見いだすことができる。
このような特徴が看取されるにもかかわらず、暁斎の技法材料に着目した研究はこれまで取り組まれてこなかった。ひいては暁斎の技法材料に限らず「日本画」の誕生以降忘れ去られていった「日本絵画」の技法材料に関する研究自体が、積極的に取り組まれるものではなかった。これは、画材を専門に扱う日本画家自身が過去の技法材料を顧みなかったことに要因がある。イメージの創出と、伝統の革新に性格づけられた「日本画」家たちには、新たな時代を作る当事者として「日本絵画」からの脱却を試みてきた歴史が根底にあり、自ら淘汰したものにあまり関心が向かなかったからだ。このような歴史的経緯を辿った現在の美術大学では、「日本画」の研鑽を積むことはできるが「日本絵画」の技法材料を学ぶことはできない。つまり「日本絵画」の技法材料は、歴史を編纂する側からも、時代を作っていく当事者からも見落とされてきた分野だったのだ。このような状況にある現在において、忘れ去られていった「日本絵画」の技法材料的特質を知ることは、より相対的に「日本画」を捉える上でも意義深いと考える。
本研究では、河鍋暁斎を「日本絵画」から「日本画」への転換期におけるキーパーソンとし、作品の模写制作を通して「日本絵画」に継承されていた技法材料的特質を実技的に考証する。完成画が現存しない《龍頭観音図下絵》の技法再現模写制作を基盤に据える理由は、完成画の原本が残っていないからこそ当時の技法記録や周辺資料を実践的に活用し、技法材料を割り出しながら研究を進めることができるからである。
以上を本研究の論点に据え、第1章では、研究対象作品《龍頭観音図下絵》について調査した内容を主に述べた。作者や作品、当時の社会背景について確認した。
第2章では、暁斎の弟子ジョサイア・コンドルが残した記録的な著書『Painting and Studies by Kawanabe Kyosai』を中心に、文献資料から当時の技法材料を調査した。また他の技法書や現在の日本画で用いられる技法材料と照らし合わせて整理した。
第3章では、研究対象作品の類例2点の再現模写制作を行なった。研究対象作品の模写制作の前に、第2章で調査した技法材料の情報を実際に絵画化する過程から、実技的な要点を把握することを目的とした。
第4章では、研究対象作品《龍頭観音図下絵》の技法再現模写制作に取り組んだ。図像の復元と、技法材料の考証を併せて完成画を想定し、実際に絵画化した。
終章では、第4章での模写制作を受け、現代の視点から見た暁斎作品及び周辺資料の、日本絵画の保存記録としての有用性を述べて結論とした。

保存修復・日本画
河鍋暁斎の絵画表現論
−《龍頭観音図下絵》(河鍋暁斎記念美術館蔵)に基づく技法再現模写を通して−
谷津 有紀