東京藝術大学 大学院美術研究科 博士審査展2019

彫刻
彫刻における無名性と記憶の想起
ー 人間と自然のはざまで ー
田内 隆利

審査委員:北郷 悟 佐藤 道信 森 淳一 林 武史

彫刻における無名性と記憶の想起 ー 人間と自然のはざまで ー
 私の生まれ故郷は、静岡県沼津市の静浦という海辺の小さな集落である。海と山に挟まれたわずかな土地にひしめくように家が建ち並び、小さな漁港で獲れた魚をひものに加工する小規模な家族経営の工場が点在する。親が会社員の家庭はほぼ無く、周囲にいる大人達の職業も漁師だったり、船大工や魚加工業、養鶏、小さな商店を経営していたりと、多くの住民が自営業で、その土地に根ざした仕事を生業にしていた。都会に住んでいると会社員がいないことはとても特異なことのように感じるが、そもそも会社というものがないその土地では、それはむしろ自然なことだった。
 駿河湾の最奥に位置する静浦の海は、台風でもなければ荒れることはなく、夜になると波の音だけが辺り一帯に響き渡る。真っ暗な海を前にすると、波の音だけが不自然なほど大きく感じられて、そのまま海という生き物に飲み込まれてしまいそうな恐怖があった。
 海岸からほど近い我が家で毎晩、窓から差し込む白い月明かりと、何か巨大な生き物の血流のような波の音に包まれながら眠りに就いた。その時の感覚は、今でも鮮明に思い起こすことができる。思い起こすというよりも、今でもその感覚が自分の中でずっと継続していると言った方が近いかもしれない。
 日中は海岸の砂浜に漁を終えた漁船がウインチで引き上げられ、漁師達が魚網を編んだり破れた網の修理をしたり、船のエンジンのメンテナンスをしたりしていた。そして見上げた空には、海から山に向かって吹き上がる上昇気流を利用して、グライダーが音もなく滑空していた。来る日も来る日も飽かずにそういうものを眺めていた自分は、心が満たされていたと同時に、空っぽで透明だった。まるで海風が身体の中を吹き抜けているかのように、心の中に留め置くことが何もなく、毎日見る景色を常に新鮮な驚きを持って眺めていた。
 そこに住む人たちは、沼津駅周辺のことを「街」と呼び、街まではバスで30分ほどだったが、特に用事が無ければ街に行くことはなく、私自身も静浦の外に出ることは、高校に進学するまでほとんど無かった。街には、自動車販売店があったり、スーパーマーケット、ボウリング場、市役所や本屋があったりしたが、そのどれもが自分の内面世界とはかけ離れたものだった。自分の内面世界は、静浦のおよそ文化的といえるものが何もない日常の中で育まれたもので、その頃に目にした海や月、山、風、船、灯台、桟橋、グライダーなどの記憶が私の中に漂っており、無意識のうちに度々作品のモチーフとして登場する。
 故郷を離れてからすでに30年以上が経つが、いまでも私の頭の中にはあの頃の月明かりの中で毎晩聴いていた夜の波の音が響いており、空を見上げればグライダーの幻影が見える。
 私にとって「作品を作る」という行為は、そうした私の内面世界に広がるイメージを物質に固定する行為であると同時に、自分自身が未だ見ぬ、自分の中に沈潜している「自然」と未分化の無意識のかたちを探り、現出させる行為でもある。無意識の形を現出させるために、私は制作工程に偶然の要素を多く取り入れ、その場で起きる自然現象を利用する。そうすることで、作品を自分の制御できる範囲から意識的に外す。その時、自分は作品の制作者であると同時に観察者でもある。私にとって制作とは、何を表現したいかではなく、そこで何が起きるかということのほうが重要である。それは私の主観によって、私の中にあるイメージを再現するのではなく、子どもの頃から今までずっと感じている世界に対する驚きを、別の形で新たに生み出そうとしている行為なのである。
 論文タイトルの「彫刻における無名性と記憶の想起」にある無名性という言葉は、以上のように自分の制御を意識的に外して偶然性を取り入れること、またそれによって自分が作品の主体ではなくなることを意味している。またそれは、副題にある「自然」という言葉にも通じている。「人間と自然のはざまで」という副題は、それらの中間領域、つまり意識と無意識の間に表現の可能性を感じていることを示す言葉であり、本論文のキーワードの一つである。

1.無名性と記憶
 1.1.「記憶-形と意味の関係」では、近代以降の彫刻に見られる再現模倣的な具象形態と、ミニマルな抽象形態の特質について、それらがどのように人々の記憶に結びつくのかを考察する。具象形態は、具体的な形を指し示すゆえに、ある特定の対象に対して、特定の感情を想起させるのには有効だが、逆に言えば特定の対象にしか届きにくいものである。他方、ミニマルな形態は、それ自体は何も特定のものを指し示さず、意味を自由に与えることができるという意味で、形に普遍性がある。しかしそれは、ともすれば何も意味をなさない空虚なものになりかねない性質もあることを論じた。
 1.2.「無名性-過去」では、20世紀以前の事物に着目し、過去に人間が生み出した無名性のある事物を例に挙げ、それらがどのような意味を持っていたか、あるいは現在どのような意味を持つかを考察した。二つの事例を挙げ、まず1.2.1.「エジプト・ピラミッド」では、前項で論じたミニマルな形態に関する形の普遍性と、ピラミッドの共通性を論じた。次に、1.2.2.「ストーンヘンジ」では、ピラミッドよりもプリミティブな形に対して感じる、人為的な作為性について述べた。
 1.3.「無名性-現代」では、20世紀の機械文明に焦点をあて、大量生産による無名性について、それがデザインや美術にどのような影響を及ぼしたかを考察した。

2.人間と自然のはざま
 2.1.「人間の刻印」では、自然物に刻印された人間の痕跡を例に挙げ、自然を支配しようとする人間の意思について考察した。2.1.1.「ラシュモア山」では、土地への敬意が感じられない公共的な造形について、2.1.2.「ランドアート」では、そのような思想がアートとしてどのように現れてきたかを考察した。2.1.3.「自然素材の使用 – 生の肯定」では、筆者自身がどのように人間の刻印と向き合ってきたかを述べた。
 2.2.「自然との共生」では、人間が自然を支配しようとしていない古来からある事物を例に挙げ、人間が自然とどのように共生してきたかを考察した。
 2.3.「現代の造形」では、「自然との共生」という視点が、現代の芸術作品にどのように引き継がれているのか、また、そこにどのような意味があるのかを考察した。

3.提出作品について
 ここでは3つの提出作品それぞれについて解説し、作品の構想と、制作に用いる技法が密接に結びついていることを示した。また、これまで論じてきたことが自作においてどのように実現されているかを解説した。

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彫刻における無名性と記憶の想起
ー 人間と自然のはざまで ー
田内 隆利