東京藝術大学 大学院美術研究科 博士審査展2019

工芸・鋳金
偶然の重層という変奏曲
金 孝真

審査委員:赤沼 潔 片山 まび 谷岡 靖則  

本論文では、高性能ソフトウェアを活用した新しい芸術様式が氾濫する今の時代において、伝統的な金属工芸のカテゴリーに属する鋳金作品の制作に関する研究の重要性について、作品制作を通じて考察する。
「伝統」や「鋳造」という言葉から感じられる重々しさのためか、そのような技法で制作された作品はあたかも伝統工芸品であるかのようなイメージに特定される傾向がある。しかし、筆者の場合は、表現媒体と制作の一部は伝統的な方式であるが、実際に完成した造形は現代美術・工芸により近いと言える。相反する概念として認識される可能性の高い「伝統的技術」と「現代的表現」。この二つの言葉を軸に研究を始めた理由は、大学時代は彫刻を、修士課程では金属工芸を専攻した後、現在に到る日本留学を決めることになったきっかけと密接に繋がっている。
現代美術工芸の研究者の一人として、鋳造技法に制限を設けず、多様な技法を併用させ造形する中で、技術の習得と直観的判断は作品構成の重要な要素となると考える。これは身体と精神の結合を意味し、他の美術分野とは違う特徴ともいえる要素である。すなわち、タリス·レイモンドの著書‘The Hand’で言及された「考える手」と認識される工芸の職人精神を示す。
一個人の生活における「私」は様々に与えられる役柄によって、本来の自我とはどこかずれた世界に押し込まれたりする。例えば、筆者は自分の外国人・留学生・主婦・保護者等の役割に居心地の悪さを覚えることがある。個人の生における自我、つまり外国人・主婦・保護者・留学生等、筆者を表現する様々な役柄は、時には私自身を本来とはどこかずれた世界に押し込まれたりする。その中で保たれる不安定な均衡は蝋で作った人体の変形と結合による重層で蝋原型になり、多様な鋳造法の併用過程を通し一つの作品に結実する。鋳造過程を経た個体は一つの塊をなし、地を足で踏みしめることなく浮遊しているこの群像は、長い間海外を転々としている作者を表し、または故郷を離れてまだ定着地を見つけることができず、流浪の途上にいる誰か、観覧者の人生の寂しさを投影する。
論文は三章からなり、第一章では、社会の構成員として筆者本人が向き合ってきた経験をベースに、現在私達が通り過ぎていく時間と空間で起る変化について、社会・科学・文化に関する他分野の研究を参照しながら美術作品としての表現方法を考察する。そして、筆者の家族構成員が異国で別の文化圏の人々と生活しながら経験してきた様々な現象と、筆者自身の学部での彫刻から修士課程での金属工芸、現在の博士課程での鋳金研究へと変化・発展してきた理由と過程・その関係性について作品と造形制作を含めて論じる。
第二章では、表現媒体としての鋳物の可能性について、材料と技法の観点から記述する。様々な種類の蝋を使用し、鋳造方法においてもより適切な技法を選択・併用してきた作業の進め方について述べる。人体の表現においては、精密鋳造と石膏の鋳造技法を用いて複製・変形による反復と結合で研究を行う。制作過程でたびたび手を触れた蜜蝋の特性、すなわち温度による変形と自由な表現の可能性に注目し、セラミック鋳造の原型作業からの表現拡張の可能性についても考察する。
第三章では、「複製、変形、反復と結合、そして積み上げた形」の方法で展開した作品の制作過程と博士審査前提出作品である「Forlorn Paradise - 悲しい楽園」に関する解説を中心に、筆者個人に起きた様々な偶然の出来事と時代的現象が絡み合って作品に反映されるまでの相互関係性について論述する。現在の研究作品の全般に現れる鋳物の偶然性による微妙な表情は、他の表現媒体では代替できないもので筆者の研究テーマに力を与えてくれると考える。

工芸・鋳金
偶然の重層という変奏曲
金 孝真