油画
ひっくり返しの創作論
ー"Gaze"から反転する"Vision"に向けてー
私は毎日を過ごしていると、ちょっと変だなと思うものに出会うことがある。その何かをなぜちょっと変だと思ったのか考えてみると、予想していたものとちょっと違ったからなのだ。そしてなぜ自分はそういう予想をしていたのかと考えたら、それまでの経験から予想をしていたのだ。ではなぜ経験から予想できるかというと、起こった出来事を記憶してパターンとして分類できるからだ。私たちは例えばただのボールにしても、そこに意味や名前、概念や象徴、他のものとの繋がりや手触り、ボールで遊んだ記憶などを、何重にも重ねて見ている。そうしてこれがボールなんだと思っている。ではその重なりを一層一層剥がしていくと、最後に“本当の”ボールが現れるのだろうか。だが頭の片隅には記憶が居座り、「これは“ボール”なんだ。」と言い続ける。それでもなんとか、一瞬記憶を忘れたふりをして、もっとよく見ると、ある瞬間、ボールではないものが見えてくる。
本論文では、この「ボールをボールだと思うこと」を “観”と呼ぶ。“観”は、ボールだと思う私の“心”と、ボールとの接地面にある“膜”のようなものである。 そして「一瞬記憶を忘れたふりをして、もっとよく見る」を “観”をちょっとだけひっくり返すこと、“ひっくり返し”と呼ぶ。本論文は、“観”の“ひっくり返し”を、私個人のレベルの経験と、人類史的な経験から捉え、その創作論について述べるものである。
本論文は以下の構成からなる。
第1章「心が映し出す世界」では、第1節「宇宙像」で、古代より世界各地で作られてきた「宇宙像」から、人間の“観”の形成と変容を捉える。元は個人のものとして発現する“観”を、他者が受容することで集団としての“観”が形成されていく。「宇宙像」はその媒体であることを述べる。次に第2節「創造神話」で、世界の始まりと成り立ちの説明の試みである「神話」から見える、人間の世界への疑問と納得の繰り返しを考察する。そして第3節「お金の銀行」で、信用という“観”で成り立つ「銀行」の不確かさから、流動的な“観”の存在を論じる。
第2章「世界を信じさせるもの」では、第1節「フィクション:概念と言葉」で人間の「フィクション:概念」をつくり受容する能力に、人間とは何か、世界とは何かという “観”を作る基本があることを述べる。第2節「記憶」で、経験を憶えておく「記憶」が “観”を維持し、「記憶」との齟齬から“ひっくり返し”が起こることを述べる。第3節「物語を生む力」で、古代に生まれ現代にも伝わる物語「シンデレラ」を題材に、人間の願望と社会の相互作用的な変容を辿り、“観”と“ひっくり返し”を繰り返す、心の“自由”を考察する。
第3章「ひっくり返る世界」では、実際に起きた、“観”の“ひっくり返し”を確認する。第1節「アントロポセン:人新世」で、人類と地球の関係性の“ひっくり返し”。第2節「原爆の影」で、時間の凝縮の“ひっくり返し”。第3節「シードバンク」で、人間の能力の限界という“ひっくり返し”。第4節「人工知能とバイオテクノロジー」では、遠くない未来人間の知能を超えると言われている人工知能と、生命を操作する技術「バイオテクノロジー」が、未来の“観”をひっくり返す“予感”という“ひっくり返し”であることを述べる。
第4章「ひっくり返す」では、これまでの自身の制作を時系列に沿って解説し、自身の実践してきた“ひっくり返し”について述べる。第1節「なんだかよくわからないものに触れる方法」で、「日用品」を分解し、“なんだかよくわからないもの”に変化させる「ドローイング」と、生まれ育った町の突然の変容から着想を得たインスタレーション作品「パイプレスペーパーアンドループ」について述べ、作品制作が、私の“ひっくり返し”であることを確認する。第2節「触れるものは、有るものか」で、「知覚」を探り、生理的な感触を想起させることを試みたインスタレーション作品のシリーズ、「この中の云々」「ひとりのバランス」「またさんじゅうろくど」「あの頃とその頃のこの頃」で、“観”を持つ“自分”とは何か、を考察する。第3節「空想はふわりと広がっていく」でインスタレーション作品、「宇宙のそば」「水たまりを探しに行く」「影の本」「点線のパノラマ」「私は誰?で忘れていること」で、「知覚」の“外”に出る「空想」により、意識のより深いところにある“観”の“ひっくり返し”の試みについて述べる。
結論では、各章の考察を踏まえ、大きく見えるが容易に“ひっくり返し”が起こる“観”とささやかに見えるが、実は“ひっくり返し”難い“観”が有り、そのささやかに見える“観”を“ひっくり返し”た時こそ、世界を見る目はがらりと変わることを述べる。