東京藝術大学 大学院美術研究科 博士審査展2019

先端芸術表現
自己の他者
—中国人女性写真家はいかに個を表現してきたか
許 力静

審査委員:佐藤 時啓 伊藤 俊治 荒木 夏実 鈴木 理策

新中国の誕生、文化大革命、改革開放、計画生育政策、グローバリズム等、社会の変遷を経験してきた社会主義国の中国において、女性写真家、アーティストたちの才能を捉えるために、時代の変遷がいかに個の意識と芸術表現に影響を与えたかを示す必要がある。このことは、筆者が長年にわたって写真表現を学び、研究を行ってきたなかで、最も関心を寄せ、明らかにしたいイシューである。

 そこで、中国の歴史的背景を踏まえ、社会的、文化的表象を参照しながら、独自のパーソナリティを持つ具体的個人の意識を核に、あえて結果を予見せずに作品制作に取り組み、1949年の新中国の誕生以来2019年までの間、異なる年代を生きた女性写真家たちを対象に、「アーティスト」という各個人の属性を構成してきた背景、制作のモチベーション、表現手法などについて調査と研究を行った。その結果、異なる時代要因がそれぞれ内包されているものの、どのような歴史的時期に身を置こうと、女性でありながらも、女性という社会的性別(ジェンダー)とは一定の距離を置いた他者意識を保っていることを、世代の異なる女性写真家たちに共通の現象として、おのおのの創作活動からうかがい知ることができた。ここで述べる「他者意識」は、意識的に女性のセクシャリティと一線を画すのではなく、創作行為を自我を反射する鏡とし、アイデンティティを確立しつつ、個の存在を確証する意識、すなわち、自己の他者になる意識である。

 一般的な西洋の哲学的枠組みは、人々が自分自身の存在を反省するために主体を仮定する必要があると考える。例えば、フランスの哲学者、精神分析家のジャック・ラカン(Jacques Lacan)の鏡像段階(Mirror Stage)論では、幼児は自分の姿を他者の鏡像としてみることによって、自分が統一体であることに気づく。さらに、人間は、他者を鏡にすることによって主体性を獲得する。ベルギー出身の哲学者のリュス・イリガライ(Luce Irigaray)は彼女の著書の『Speculum of the other woman』で、以下のような理論を提唱した。社会生活において、女性は男性の存在を反射する鏡であり、男性は女性のことを、主体性を確立するための他者としてきた。男性の他者としての女性自身は凹面の膣鏡(クスコ)であり、自分を自我が映す他者にすることで、自分で自我の存在を確証できる。すなわち、女性は他者の他者である。

 本稿では、1949年から2019年までの70年間を、1.新中国建国初期における個の意識が隠匿された時期(1949-1978)、2.文革以降、個の意識が転換した時期(1979-1989)、3.現代アートと併存する個の意識の覚醒した時期(1990-2006)、4.グローバリゼーションの進展に伴い多元化する個の意識が確証される時期(2007-2019)の、4つの時期に分けて論じる。

 中国のような社会主義国家における女性のセルフアイデンティティ、イデオロギーの形成には独自性がある。西洋における女性解放の過程と異なり、新中国において女性解放運動が組織的、計画的、全国的に行われたことは皆無なうえ、父権制文化に対する根本的な批判から対案の提示を経て再構築されたこともない。また、西洋の女性解放運動は国家権力の確立後、その政権や制度に対して女性の権利を獲得するために行う社会活動であった。一方で、新中国におけるそれは国家建設と同時並行で推進された。このように、中国と西洋では、政治環境と時代の趨勢に著しい差異があったのだ。

 新中国建国初期における個の意識が隠匿された(蓋せざるをえなかった)時期における女性による写真表現は、国家と政党の需要に沿ったものにすぎず、個人の意志の表出ではなかったと言える。文革以降、個の意識が転換した時期における女性の写真表現は、芸術写真へ変遷する時期が進展する中で需要されたものであり、社会変革を推進することが、写真家自身の責任そのものであった。現代アートと並存する個の意識の覚醒した時期における女性による汎写真表現(写真、写真を含むインスタレーション、映像作品など)は、女性の社会的属性を理解することを目的とする自己の脱構築であった。グローバリゼーションの進展に伴い多元化する個の意識が確証される時期における女性による写真表現とは、彼女たちの主体性の構築への需要に基づいたものであり、自身が自己の他者になる過程そのものなのである。

 とりわけ、1990年以降に活躍し始めた一群の女性アーティストたちの影響力は、アジア地域を超えて、世界のアートシーンにも及んでいる。中国における芸術写真の発展の変遷を理解するための重要なファクターとして、本稿は、時代的な差異と女性写真家の創作との関係を軸に、彼女たちの個人の意識の変遷を論述の中心としながら、中国人女性写真家はいかに個を表現してきたか、すなわち、写真という叙事的な多様性、ならびに多元的な主体性を構築する元の姿を還元していくことを試みる。

先端芸術表現
自己の他者
—中国人女性写真家はいかに個を表現してきたか
許 力静