日本画
包まれる空間認識
ー乱視野と輪郭の共生ー
本論⽂では、幼い頃からメガネをかけてきたために発⽣し、⾃⾝の作品の根源でもある「乱視視界」と「矯正視界」の2つの視界について考察し、それによって「包まれる空間」を⽣み出そうとしている⾃⾝の創作について論述する。
私は幼い頃から、乱視・近視矯正のためにメガネをかけて⽣活している。そのため裸眼の状態とメガネの状態、2つの⾒え⽅が常に存在していた。裸眼の状態では物と物との境界が曖昧になり、染み広がって⾏くように⾒える。私にとって裸眼の空間は、物の輪郭がブレた「柔らかな視界」である。これは結露した窓ガラス越しに⾒る光景に似ており、幻のような雰囲気がある。この光景を私は昔から美しいと感じており、同時に柔らかな⾒え⽅に安⼼感も感じていた。それに対してメガネによって矯正された視界は、はっきりと物を捉える「輪郭の視界」である。ブレた視界が⽇常的に存在しているからこそ、「輪郭の視界」では視⼒異常のない⼈よりも、より形への意識が⾼まっていると私は考える。ここから「輪郭の視野」で⾏う素描は、情緒性を求めるよりも多くの形の種類をコレクトし、貯め込んでいくものとなった。そうして集められた多くの形と、乱視の視野の柔らかなブレのイメージが共存する場を、絵画によって表象、昇華させることが⾃⾝の作品制作の軸となった。
幼少期のお気に⼊りの遊びの⼀つに、⾵呂敷遊びがあった。いくつかの⾵呂敷を繋いで⾃⾝を包み、⼤きな繭になるのである。内部には、包まれる安堵感と外界から隔てられた孤独感とが共存する、不思議な空間が形成された。私はこの包まれる感覚を、無意識に⾃⾝の作品にも反映させていた。この⾵呂敷遊びの感覚が、2つの視野による捉え⽅と根底で類似していたからである。
「包まれる」という感覚は、教会内部の光の演出を狙った建築や、寺院の仏教思想の宇宙観を体現した構造にも感じられる。私の場合の「包まれる空間」は、どちらかといえば教会の乾燥した光の感覚より、寺院の仄暗い感覚の⽅が近い。また浄⼟宗の華やかな理想郷より、禅宗の⽔墨画のような⼤⾃然の中にポツンと⼈が佇む静かな空間の⽅が、より⾃⾝の作品世界に近いと⾔える。「包まれる空間」は、安⼼とともに孤独感にも繋がり、故にそれを表現することで⾃⾝の内的部分を外部に伝え、共感を求めているのかもしれない。
本論⽂は 3 章で構成される。
第 1 章「2つの視界」では、⾃⾝の創作の発端と⾔える2つの⾒え⽅について考察する。第1節では裸眼の視界と矯正視⼒の視界を、それぞれ⾃作品と⾃⾝の体感を踏まえて述べ、第2節では視⼒異常があったとされる他の作家
の作例を⽰し、正常視とは異なる⾒え⽅による創作の可能性を論ずる。第3節では絵画以外のぼやけた表現について、映画やドラマの演出法と写真表現について述べる。
第2章「包まれる空間」では、2つの視界によって⽣まれる「包まれる空間」について論ずる。第1節では、キリスト教の教会内部、仏教における空間演出の、両者の相違について述べ、また⽔墨画やインスタレーション作品の体感的空間感覚について考察する。第2節では、第1節で挙げた「空間」と、幼少期の⾃⾝の体験や⾃作品の「空間認識」との類似点と相違点を考察し、「包まれる空間」の創造⼿法について論ずる。また、⾃⾝を作品内部の⼩動物に投影し、離⼈感による第2の「包まれる感覚」を喚起させようとしていることについて論ずる。
第 3 章「提出作品」では、第 1 章と第 2 章を踏まえ、提出作品について解説する。第1節では和歌の「⾊無し草」という表現、視覚異常がなくても虹彩や経験の違いから⽣じる視界の違いについて着⽬し、⾊相よりも形の共感性が⾼いことを論ずる。第2節dでは⾃⾝のモチーフについて述べ、第3節では提出作品について制作⼯程を踏まえて解説する。