東京藝術大学 大学院美術研究科 博士審査展2019

工芸・漆芸
苔類における「氣」の探求
ー乾漆技法を用いた造形と装飾表現ー
許 琦

審査委員:小椋 範彦 井谷 善恵 青木 宏憧 黒川 廣子

「氣」はどこにあるのだろうか?「氣」は目に見えて、手に触れるものだろうか?「氣」は具体的なかたちに表現できるのだろうか?「氣」は漆を使って可視化できるだろうか?私は日本で留学の日々を送っているうちに、目立たない苔や地衣類にだんだん魅せられ、知らぬ間に目を向けるようになった。苔はある時は大勢に群れて、絨毯のように大地の一面を覆ったり、ある時は愛らしい帽子のようにどこかにかぶさって、ふわふわした姿をしたり、またある時は建築物や彫像をまるごと侵食する。様々な形を取りながら苔は長い時間をかけて自分らしく、ゆっくりと広がっていく。
時の流れが苔の美しさに深みをもたらす。私はその無形のいのちの気配に感動する。周知の通り、苔は周囲の環境に極めて敏感な生き物であり、雨、霧、光、風、空気、いずれの要素の変化も苔に影響を与えてしまう。そのため、苔は空気の質を測る生物とも言われている。我々はなかなかこう言った自然要素を感じとることがないが、苔はその微かな変化にも反応する。天地に流れる空気は呼吸によって吸われ、それで生命が繁栄するように、もともと気とは人を含め生きとし生けるものの生命現象の根本的な流れである。苔の進化の歴史において、「氣」は大事な役割を果たしてきた。本論は苔類を制作のモチーフとし、自身の作品と苔、および自然要素の「氣」と人との関係性を論述する。
 第一章「自然の要素」では、自然からいくつかの要素を抽出した。土、雨、光、色、空気、これらの要素には固まりになっているもの、流動性のあるもの、また、かたちをもたないものがあり、長いいのちの進化の流れにおいて、それらの相互作用からあらゆるものが生まれた。第1節、「土、雨、光、色、空気」では、これらの自然の要素が自分の制作に及ぼした影響を述べる。例えば、空気の気配、雨の音、日差しの匂いなど、いざ大自然に身を置いてみると、皮膚が呼吸しているように、自然の要素が当たり前のように私の体に入ってくる。まるで自分が一枚の葉っぱに変身したようで、それは自分が自然とは切り離せない存在となった瞬間である。第2節、蘚苔類では、苔を制作のテーマにした経緯に触れ、苔自体の進化及び苔の種類による特質をもとに自分の制作意図を明らかにする。そして苔と森の互いに支え合う関係性を主な切り口に、私の平面作品と立体作品に含まれるそれぞれの意図及び双方の関係性を論述する。第3節、「『氣』と苔と人の共生」では、日本庭園を実例として、前節で論じた「氣」と苔といのちとの相互関係をさらに整理した。例えば、苔はよく庭園作りに使われ、日本でも中国でも庭園に苔の姿が伺える。特に日本庭園では苔は主役として配置されることが多い。
 第二章 漆と苔の関連性 この章において、天然素材としての漆を作品の制作に使う意味、および漆と苔との関連性を主に論述する。第1節、永遠の緑、この節では、天然塗料として、防腐、防虫などの特質を備え持つ漆が器物を腐敗から長く守ることを述べる。天然の緑の顔料を漆に入れてかき混ぜ、時間が経つにつれて緑漆の色はますます鮮やかで、美しくなり、しかもそれが長く保つのである。まるでいのちの循環のように、永遠に続けていく。第2節、 生命の膜、この節では、漆が職人の手で何度も磨かれ、仕上げられた後、表面から現れる温潤な光沢は皮膚のように暖かく、生命力に満ちていることを言及した。これは大地に這いつくばり、土壌流失を有効に防ぐ苔の役割と相似する。それ故に苔は森および大気環境の調節に大切だと言われている。第3節、豊潤な空気 この節において、苔が生える場所は多く湿った空気に纏わられることを実例で説明する。
 第三章 「中国の『「氣」』と日本の気では」、それぞれの文化背景における「氣」に対する理解およびかたちを持たない『「氣」』と具体的な物事との関係性を論述する。第1節、「中国の「氣」」においては、古くからの人々の「氣」に対する理解とその変化を整理し、気への私見、ならびに自品との関係性、『「氣」』が自身の作品に与えた影響を述べる。第2節、「『「氣」』と気および気配ついて」では、異なる漢字に含まれるそれぞれの意味を分析する。第3節「見えないものを具現化にする」においては、かたちを持たない自然要素の具体的な物事においての表現、ならびに日本文化である「気配」という言葉が私の作品作りに与えた影響を述べ、具体的な例を用いて「氣」といのちとの関係性を論述する。
第四章「苔類を織りなすコスモスー自品について」では、自作および制作過程を支える根本的な制作意図ー「「氣」とは人を含めて生きとし生けるものの生命現象の根本的な流れである」ということについてさらに論述する。

工芸・漆芸
苔類における「氣」の探求
ー乾漆技法を用いた造形と装飾表現ー
許 琦